湯川サ高住

湯川サ高住ブログ『さんのーがーハイ!!』を更新しました

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和気清麻呂6.png

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今回は和気清麻呂の桓武天皇期の復権と平安京造営までの仕事を見ていきたいと思います。

前回(2024年8月5日付のブログをご覧下さい)の最後の部分で清麻呂が豊前守に就任していた事を述べましたが、期間としては短期間で宝亀2年(771年)末には次の国司が任官しており、それに伴い帰京したと考えられます。ここから天応元年(781年)至るまで10年間の間長く官職の記録がない時期となります。唯一見られる動きとしては宝亀5年(774年)に姓(かばね)が宿禰(すくね)から朝臣(あそん)に変更した事が挙げられますが、姓の制度はこの頃には形骸化しており、この事自体に何か大きな意味があるとは考え難い所です。

この状況は天応元年(781年)に桓武天皇の即位によって一変します。同年に清麻呂はそれまでの従五位下から従四位下に昇進します。さらに延暦2年(783年)には摂津大夫(せっつだいぶ)に任命されます。

摂津大夫は要職として知られており、その職務は現在の大阪府北部・兵庫県南東部である津国(つのくに)の国司としての業務の他、難波津(なにわつ)などの港湾の管理、さらには当時副都として機能していた難波京(なにわきょう)の管理と多岐に渡っていました。故に任命される人物も高位の人物が多く、フローラルイラスト③.png皇族や天皇の側近が多く任命されており、任命当時に右大臣として政を司っていた藤原田麻呂(ふじわらのたまろ)もかつて任命されたという官職でした。

 

この摂津大夫として清麻呂は津国の治水に取り組むことになります。この時代、難波津が淀川や大和川(やまとがわ)からの土砂の堆積により港としての機能を十分に果たせなくなっていました。それに伴い故に難波津に代わる新たな港湾・河川ルートの構築が急務であったのです。

この一環として行われたのが大阪北部にある神崎川(かんざきがわ)と淀川の直結工事でした。この工事は成功し、これにより神崎川ルートが海運ルートとして確立され、その河口域は神崎の港として物流の一大拠点として機能する事となります。また、この工事は延暦3年(784年)の長岡京遷都、さらには平安京遷都の大きな要因の一つとなっていきます。

また当時の津国を悩ませていた大和川の洪水を防ぐため、大和川と大阪湾を直接繋ぐルートの掘削工事を試みます。現在の大和川は大阪湾に直接流れ込む形になっていますが、この当時は新開池(しんがいけ)や深野池(ふこうのいけ)という池に流れ込んだ後に現在の寝屋川に近いルートを通って淀川に流れ込み、淀川から大阪湾に流れるという形でした。故にその流域では大和川から流れてきた土砂が十分に大阪湾に流れずに河川に堆積し、非常に洪水を起こしやすい状態になっていました。これを改善するために清麻呂大和川の支流である河内川(かわちがわ・現在の平野川とされています)から四天王寺の南に抜ける水路の建設に着手します。難波津が現在の中之島周辺であったと考えられている事からも現在よりも大阪湾が大阪平野内に入り込んでいる当時としては現実的な案だったのですが、上町台地(うえまちだいち)の掘削に難渋した結果失敗に終わっています。余談ですが、この大和川の問題は宝永元年(1704年)に大和川付替えによって流路が変更されるまでは解決しませんでした。

 

フローラルイラスト②.png桓武天皇の治下における清麻呂の急速な出世、そして後の平安京の造宮大夫就任を考える上で重要になってくるのが渡来人諸氏との関係であるとされています。

元々桓武天皇自身が朝鮮半島南部である百済に由縁を持つ和氏(やまとうじ)出身の高野新笠(たかののにいがさ、高野氏は桓武天皇の父・光仁天皇の即位時に和氏から変更しています)を母に持つ一方、平城京に根拠を持つ天武天皇系の血の影響を殆ど持たず、それに伴って奈良に地縁を持つかつての有力貴族層の助力を得難い状況にありました。そこで自身の政権を支える層として考えたのが母と同じ渡来人由来の氏族や、それらの氏族と関係の深い地方豪族でした。かつての有力貴族層であっても即位当時重用された藤原種継(ふじわらのたねつぐ)は母が渡来人氏族である秦氏(はたうじ)であり、妻も山背国(やましろのくに・現在の京都府)出身で秦氏との繋がりも深い有力豪族であったりと、渡来人氏族との関係性は桓武天皇にとって極めて重要であったと考えられます。

そして、清麻呂の出身氏族である和気氏も渡来人と深い関係にあったと考えられます。和気氏の出身地であり、後に国造として支配する事になる美作国(みまさかのくに・岡山県北東部)備前国(びぜんのくに・岡山県南東部)は秦氏が多く居住している地域とされており、しかもそのルーツは山背国の秦氏が移住してきたものとされています。この事から清麻呂の桓武天皇治下における急速な出世に渡来人氏族との関係性があったと考えられます。

桓武天皇治下における最初の大事業が延暦3年(784年)の長岡京遷都でした。背景としては

①平城京の物資輸送拠点として機能していた難波津の機能不全に伴う大和国(奈良県)の交

通の要衝としての地位の低下

②既存の仏教勢力・貴族勢力の影響の排除

③桓武天皇の支持基盤である渡来人勢力の導入

が挙げられます。フローラルイラスト①-1.png

①に関しては先に述べましたので説明は省きます。②に関しては既存の仏教勢力や貴族勢力は大和国という土地と強く結びついており、また桓武天皇にとって最も大きな敵対勢力である天武天皇系の皇族から大きな恩恵を受けているため、天武天皇系の皇族の反乱が発生した際に味方するであろうと考えられました。現に即位間もない天応2年(782年)に氷上川継(ひがみのかわつぐ)の乱が発生します。首謀者の氷上川継は両親共に天武天皇系の皇族という血統の持ち主であったため警戒されている人物でした。そしてこの乱の関与者への処罰も厳しい物で、川継こそ光仁天皇の喪中を理由に死罪を免ぜられて流罪となるものの、関与が疑われた時の左大臣・藤原魚名(ふじわらのうおな)は大宰帥として左遷されるという後の昌泰の変(菅原道真が左遷された事件)にも匹敵する物になりました。この時点で②の理由での遷都は決定的になったと考えられます。

③に関しては渡来人氏族の代表とも言える秦氏の根拠地は葛野郡太秦(かどのぐんうずまさ・現在の京都市右京区太秦周辺)や紀伊郡深草(きいぐんふかくさ・現在の京都市伏見区深草周辺)など山背国付近に集中しており、後ろ盾が渡来人氏族しか居ない桓武天皇にとっては遷都するにしてもそれらの氏族の助力を得易い地域にする事は重要でした。

以上3点の条件を満たす地域として最初に選定されたのが山背国長岡、現在の京都府長岡京市周辺でした。①の面ではすぐ南に淀川が桂川・宇治川・木津川に分かれる山崎津(やまざきのつ・現在の京都府大山崎町)がある上にその山崎津の近くには巨椋池(おぐらいけ・現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがって存在していた湖)があり、水運を用いて効率的に物資輸送が出来る場所であり、②の面でも周辺に在来の仏教勢力・貴族勢力の根拠地も無く、③の面でも秦氏の根拠地が近いという全ての条件を満たす場所でした。

フローラルイラスト②.png延暦3年(784年)、藤原種継が自身の母の根拠地でもあった長岡を新都として奏上すると早速造宮に入り、土地勘のある種継は責任者として造長岡宮使に任命されます。平城京の勢力の介入を警戒して、長岡宮の造営には難波宮の宮殿を移築するなど細心の注意を払って行われた造宮でしたが、翌年延暦4年(785年)に種継が造宮監督中に射殺されます。実行犯と同族で中納言であった大伴家持(おおとものやかもち)とされ、事件の前月に亡くなっていたにもかかわらず官位を剥奪されます。大伴氏が多く処罰者を出した上に、皇太子であり桓武天皇の同母弟である早良親王も家持が春宮大夫(とうぐうだいぶ・皇太子の家政機関である春宮坊の長官)に任命されていた関係から関与を疑われ廃太子の上で流罪となります。

事件の要因としては当然平城京に属する仏教・貴族勢力の反発が考えられました。首謀者の大伴家持をはじめとする大伴氏は奈良時代に大和国内に根拠地を移していたのに加えて、それ以前は難波津周辺を根拠地としており、長岡京の造宮によっていずれの根拠地も大きなダメージを受ける事になります。そして、早良親王自身も皇太子になる前は東大寺の僧であり、しかも東大寺の指導者的立場であった為、平城宮の仏教勢力の影響減は自身の影響力減に繋がってきます。以上の理由から罰せられた各人ですが、その死後に飢饉や疫病の発生、種継の重用に大きく影響した桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏の死去などの変事が相次いで発生した為、長岡京の造宮は止まってしまいます。これらの変事は早良親王の怨霊によるものとされていますが、一方で水運を意識し過ぎた土地選択の為に水害の発生頻度が高かった事も造宮中止の一因と考えられます。

 長岡宮造宮こそ止まってしまいましたが、種継の射殺事件を見ても平城宮からの遷都は不可欠な状況で、次なる候補地の選定に清麻呂が関わっていく事になります。

『難波宮跡』和気清麻呂8.jpg

清麻呂が着任した摂津大夫の仕事の一つが難波宮の管理でした。

現在、大阪城の南に位置しており、大阪の街のオアシスとしても機能しています。

 

 

 

 

『淀川の分水路』和気清麻呂9.jpg

この分水地より神崎川となります。神崎川の川の流域自体は当時と大きく変わっていますが、この付近より淀川から分水する事自体は変わりません。

 

 

 

 

『長岡宮跡』和気清麻呂10.jpg

清麻呂も周辺の治水担当者として関わっていたようです。現在では閑静な住宅街の中の公園となっています。

 

 

 

 

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