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湯川サ高住ブログ「さんのーがーハイ!!」2024年8月

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和気清麻呂4.png

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今回は前回(202366日付のブログをご覧下さい)の続きで、いよいよ宇佐八幡宮神託事件と和気清麻呂について見ていきたいと思います。

和気清麻呂③.png 宇佐神宮

 神護景雲3年(769年)5月、当時大宰帥(だざいのそち)であった弓削清人(ゆげのきよひと)と太宰主神(だざいのかんづかさ)である習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)「道鏡を皇位につけたならば、天下太平ならん」(道鏡を天皇位につけたならば、天下は平和に治まるだろう)という内容の宇佐八幡宮の信託を称徳天皇に奏上されます。この奏上をきっかけとして清麻呂の人生を大きく変えるきっかけとなっただけでなく、後の長岡・平安京遷都の一因とも考えられる大事件である宇佐八幡宮神託事件が始まります。ただ、この奏上も突発的に発生したものではなく、奏上に至る背景が存在しました。前回にも軽く記載しましたが、今回は後に清麻呂にも関係してくる背景ですので、少し深く見ていきたいと思います。

 当時の宇佐八幡宮は主に3つの氏族によって管理・運営されていました。宇佐八幡宮の創建当初から神社の祭祀の中心的な地位を占めていた大神(おおが)氏、その大神氏に祭祀の実務面などで協力してきた渡来系氏族の辛嶋(からしま)氏、そして宇佐国造を務めるなど在地豪族の長として君臨するも宇佐八幡宮との関係では後発になる宇佐氏3氏がそれに当たります。フローラルイラスト③.png

 宇佐八幡宮は奈良時代に大きな発展を遂げます。天平12年(740年)の藤原広嗣の乱の際には官軍の大将軍である大野東人(おおののあずまびと)が戦勝祈願を行い、更に天平15年(743年)には大仏造立の詔が発せられたのに際して宮司が託宣を届けて協力を約し、結果として東大寺大仏が造立されるに伴い、その権威は大きく喧伝されます。

 一方で大仏造立後の八幡宮では大宮司である大神田麻呂(おおがのたまろ)が天平勝宝6年(754年)に宇佐から追放され種子島に流される事件が発生します。この事件の背景として、当時の朝廷が国家に管理されていない宗教団体を弾圧していた事が関係しているとされます。有名な事例では大仏造立に協力する前の行基が挙げられますが、大仏造立で力をつけ過ぎた八幡宮及び八幡信仰も朝廷に警戒された為にこのような事件が発生したと考えられます。そして空白となった大宮司の役職についたのが宇佐氏でした。しかし、宇佐氏は八幡宮の大宮司としての実績は少なく、今後安定して大宮司の職を世襲するためには他の大きな実績が必要だったのではないかと考えられます。

 また、大宰帥である清人も弓削氏の繁栄が称徳天皇の道鏡への寵愛に大きく依存している事はよく分かっていたと思われます。そして称徳天皇もこの時点で50歳を超え、いつ崩御してもおかしくない状況で、弓削氏の繁栄の継続のために何らかの手を打つ必要がありました。

フローラルイラスト②.png 清人が打つ一手として道鏡の皇位継承は一見突飛な様にも見えますが、称徳天皇の道鏡への寵愛の大きさ、弓削氏の勢力の小ささ、称徳天皇の後継者への伝手が無い事、そして称徳天皇の八幡宮への信仰の強さなどを勘案すると決して悪い一手では無かった様に思えます。そして、それに協力する宇佐氏や宇佐氏を引き立てた阿曾麻呂からしても成功した時の利益は大仏造立の功績すら霞むほど大きな物になったでしょう。これらの要因が重なり宇佐八幡宮からの神託が奏上されるに至ったと考えられます。

 道鏡を皇位につけるべきであるという奏上は後継問題に悩む称徳天皇を大いに喜ばせたと考えられます。しかし、皇位継承という重大事である以上、安直にこの奏上を受け入れる事は藤原氏をはじめとする朝廷の中心貴族を完全に敵に回し、政務が停滞する可能性すら考えられました(後の話ではありますが宇多天皇が藤原基経と対立した際に基経が職務を放棄した事をきっかけとして他の公卿も職務を放棄し、結果的に天皇の謝罪と勅書の訂正を余儀なくされています)。それを防ぐために使者を派遣し宇佐八幡宮に直接確認する必要がありました。この使者は称徳天皇の信頼できる人物でありながら、道鏡や藤原氏などの利害関係者からも一定の独立した立場である事が要求されます。それを満たしたのが法均尼そしてその弟の清麻呂だったのです。

和気清麻呂①.png 和気清麻呂像

 清麻呂が宇佐に勅使として派遣された際、宇佐八幡宮でも大きな動きが発生していました。どのような経緯かは不明ですが、宇佐から追放されていた田麻呂が宇佐八幡宮の大宮司に返り咲いていたのです。宇佐八幡宮神託事件の最も大きなターニングポイントを挙げるとすればこの事では無いかと思われます。もし、宇佐氏が大宮司のままであった場合奏上通りの神託が下されていた可能性が高く、そうなれば称徳天皇の側近という性質を持つ清麻呂としては奏上通りの神託を称徳天皇に奏上する事になったであろうと考えられます。しかし、現実には宇佐八幡宮の実権は大神氏に戻り、天皇家の権威によって栄えた大神氏の宇佐八幡宮の立場から先の奏上を否定する神託が下りました。フローラルイラスト①-1.png

 この神託を清麻呂より聞いた称徳天皇の怒りの大きさは清麻呂及び姉の法均尼への処分から明らかです。姉の法均尼は還俗(僧侶が俗人に戻る事)させられた上で「広虫売(ひろむしめ)」、清麻呂も真人の姓を奪われた上で「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させられています。しかし、この一件で道鏡の即位の可能性は短期的には無くなりました。なお、足立山にまつわる清麻呂の逸話はこの処分の一環として大隅国(現在の鹿児島県西部)に流される途中の話となります。当時の流罪は流される途中及び配流地での安全は確保されておらず、称徳天皇の治世でも廃位された淳仁天皇が配流地である淡路島から逃亡を図って失敗し、翌日崩御する(暗殺された可能性が高い)など皇族であっても危険であることに例外は無い事が分かります。

 一方、道鏡の即位を封じられた称徳天皇は道鏡の故郷に造営された由義宮に度々行幸を行い道鏡の権勢の保持に務めるも、翌年の宝亀元年(770年)に崩御します。この崩御をきっかけに道鏡を中心とする弓削氏は失脚。道鏡は下野国(現在の栃木県)薬師寺別当を命じられ赴任後の宝亀3年(772年)に同地で死去。清人をはじめとする弓削氏も土佐国(現在の高知県)に流罪になり、後の天応元年(781年)に罪を免ぜられるも平城京への入京は禁じられました。

フローラルイラスト②.png 道鏡の失脚に伴い、清麻呂と法均尼への罪も免ぜられ、平城京への帰京も許されます。しかし、この2人が重用されはじめるのは天応元年の桓武天皇の即位後の話であり、清麻呂の復権後の10年間の動きは不明瞭な点が多く存在します。その中で数少ない官職として豊前守を務めていた事が分かっています。具体的な時期は不明ながら在任中に宇佐八幡宮の神職団の再編に関わったとされます。具体的には大宮司には大神氏を充て、次官級である少宮司には宇佐氏を、実務者層である禰宜・祝には辛嶋氏を充てると定めました。これにより宇佐八幡宮の主導権争いに一旦終止符が打たれる事になりました。余談ですが、現在でもこれら3氏の末裔は大分県をはじめとする北部九州に多く在住しています。宇佐八幡宮の宮司職は平安時代の石清水八幡宮の勧請をきっかけに宇佐氏が担うようになり、近年まで宇佐氏の一族である到津氏(到津の森公園がある到津が名字の由来とされています)が務めていました。

和気清麻呂⑤.png

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