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湯川サ高住ブログ「さんのーがーハイ!!」2023年6月

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和気清麻呂2.png

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 前回(202292日付けのブログをご覧下さい)では和気清麻呂の生い立ちを主に彼の生まれた藤野別(ふじのわけ)氏、後に和気氏を賜る一族に焦点を当てて見てきました。

今回は、吉備地方の一豪族であった清麻呂が如何にして宇佐八幡宮神託事件において勅使という大役を受けるに至ったかを述べていきたいと思います。

和気清麻呂③.png

上:宇佐神宮(宇佐八幡宮)・呉橋(くれはし・大分県指定有形文化財)

勅使のみが通行できる橋で、現在の物は元和8年(1622年)に当時の小倉藩主・細川忠利公によって修築された物が基礎となっています。

 

 清麻呂が歴史に現れるのは、天平神護元年(765年)の正月に従六位上と勲六等を授けられ、さらに3月に右兵衛少尉(うひょうえのしょうじょう)に任じられたのが最初だとされています。これは前年の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱での功績によるものとされます。

 ただ、これは彼の経歴と年齢(765年で32歳)を考えると相当な速度の昇進であったとされています。当時、清麻呂と同じ様な地方豪族の子弟は20歳に舎人(とねり)として出仕し、そこから昇進して行くのですが、通常の場合8年ごとに1位階昇進すると定められており、その速度では14位階昇進する必要のある従六位に32歳で到達するのは極めて困難と言えます。フローラルイラスト①.png

 それ以外ですと官僚育成期間として設けられた大学寮を卒業した上で、試験を受けて優秀な成績を残す事によって少し高い位階で任官できる仕組みがありますが、こちらにしても32歳で従六位は極めて速い昇進であり、この仕組みで任官し出世した人物の最高峰とも言える吉備真備でも唐(当時の中国)から帰還した後にその功績を踏まえて正六位下に任じられたのが39歳であった事からもその昇進速度の異常さが伺えます。

 では、この昇進速度の理由は何なのか。それを考える上で鍵となるのが、後の宇佐八幡宮神託事件で清麻呂が宇佐に派遣される理由となった、姉・和気広虫(わけのひろむし)です。彼女は天平16年(744年)に葛木戸主(かつらぎのへぬし)に嫁いでいます。この戸主という人物は最終的に坤宮大忠(こんぐうだいじょう)に至るまで常に中宮職、つまり皇后や天皇夫人に仕える役人としての経歴を有しており、その関係もあり嫁いで間もなく阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)に仕えたとされています。

 

 ここで注目すべきなのが、戸主が任じられていた坤宮大忠が所属する紫微中台(しびちゅうだい)という官庁が光明皇后に仕える官庁であり、その官庁のトップである紫微令に光明皇后の甥である藤原仲麻呂が就いていたという点です。仲麻呂は同時に中衛大将という天皇直属の軍事職のトップも兼ねており、この事が清麻呂の兵衛府での速い昇進に大きな影響を与えたと考えられます。兵衛府は天平宝字2年(758年)に仲麻呂によって虎賁衛と改称させられます。「虎賁」とは中国における皇帝直属部隊の名称であり、仲麻呂自身が兵衛府を自身の軍事組織として機能させようとしていた痕跡が伺えます。

 フローラルイラスト②.pngこの様に光明皇后をはじめとする藤原氏の影響で出世していった広虫と清麻呂の姉弟は一見するとそのまま藤原仲麻呂の乱に藤原氏側として参戦し、その敗北によって没落して行ってもおかしく無いように思えます。しかし、現実では仲麻呂を見限り、この乱の功績によってさらなる出世を成し遂げています。この選択の原因としては、広虫が孝謙天皇(乱直前は上皇)個人の側近となっていた事が大きいと考えられます。天平宝字6年(762年)に孝謙上皇は時の天皇・淳仁天皇の不孝を理由に出家します。この出家に付き添う形で広虫も出家し、法均を名乗ります。この時期には淳仁天皇およびその後ろ盾である仲麻呂と孝謙上皇の関係は出家の理由からも明らかなように極めて悪化しており、ここで広虫が出家するという事は藤野別氏が築いて来た今までの藤原氏との関係性を大きく損なう事になります。故にこの時点で藤野別氏が孝謙上皇派として乱を迎えることがほぼ確実になったと言えます。なお、この出家を勧めたのが道鏡であり、孝謙上皇と淳仁天皇の関係悪化の原因ともなっています。

 

 そして冒頭の任官のきっかけとなる天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱へ至ります。この乱で活躍したのは同年数えで70歳となり、辞表まで提出した吉備真備でした(なお受理される前に新たに任官されたため辞表は流れました)。真備は乱の発生後急遽参議に任官され、孝謙上皇の軍を率いて圧倒的優勢であった仲麻呂の軍の撃破に成功します。一方、この乱における清麻呂の動きは不明ですが、姉の広虫(法均)は乱に連座した375人の斬刑に関して孝謙上皇に強く諌めて流刑・徒刑に変更させています。これは孝謙上皇の苛烈な性格を踏まえると極めて危険な事で、この直諫が通る事自体が孝謙上皇の法均への大きな信頼が伺えます。

 藤原仲麻呂の乱の後、最大の功績者である吉備真備は急速に昇進し、天平神護2年(766年)には従二位・右大臣に至ります。しかし、それ以上の急速な昇進を遂げたのが道鏡やその実家である弓削氏でした。特に道鏡の弟にあたる弓削浄人(ゆげのきよひと)は乱の前は従八位下と清麻呂と同格かあるいは格下の位階だったのが、乱の功績により従四位下まで昇進したのを端緒に宇佐八幡宮神託事件の直前の神護景雲2年(768年)には正三位・大納言まで昇進しています。道鏡自身も乱の直後である天平神護元年(765年)に太政大臣禅師、ついで翌年には法王に任じられ、再び即位した称徳天皇の政治に大きな影響を与えていきます。

 ただ称徳天皇の治世にもいくつか弱点がありました。その性格を表すような苛政、重い刑罰などが挙げられますが、最も大きいものは後継者問題でした。そもそも称徳天皇が即位したのも天皇になりうる適切な血統の成人男性がいなかったという理由があった上に、その後の藤原仲麻呂の乱をはじめとする乱の影響で、20人もの皇族が死罪や皇籍剥奪によって失われていたのです。その影響は称徳天皇の異母妹にまでおよび、神護景雲3年(769年)には異母妹である不破内親王とその息子を流刑にし、その影響を恐れて白壁王(後の光仁天皇)は日中から酒を飲み暗愚を装って過ごす事を余儀なくされています。フローラルイラスト③.png

 この様に後継者たりうる人物がいなくなりつつある時に都に届いたのが宇佐八幡宮からの道鏡を皇位につけるべしという神託でした。背景としては当時道鏡の弟弓削浄人が大宰帥という九州を統括する官に任じられていたこと、そして称徳天皇の行う仏教政策の恩恵を宇佐八幡宮が強く受けていたことが挙げられます。

 とは言え、皇位継承問題は昨今においても非常に難しい問題であることは明らかで、ましてやまだ実権が強く残っている当時の皇位継承に関わる神託をそのまま受ける訳には行かず、確認のために勅使を送る事になります。そこで選ばれたのが当時従四位下と天皇に仕える女官としては次官級の位階(と恐らくそれに準ずる官)を得ていた法均でした。法均尼が選ばれた理由については不明ですが、女性である天皇の意向を伝えるのだから女官が相応しいし、当然側近が望ましい。かと言って、長官級の女官を送るのは実務の滞りの原因にもなる。それを踏まえると複数人いる次官級の女官を送るのが妥当であるといった理由が推察できます。しかし、法均は病弱で長旅に耐えない事を理由に弟の清麻呂を勅使に推します。ここに清麻呂の生涯最大の苦難がはじまるのです。

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右:宇佐神宮(宇佐八幡)

  弥勒寺(みろくじ)跡

 

称徳天皇の父、聖武天皇の時代である天平10年(738年)に建立された。

聖武天皇以来の仏教政策の恩恵を受け、西日本屈指の寺院となりました。

しかし、江戸時代には廃れてしまったそうです。

 

 

 

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